私の義父、じいちゃんが亡くなったのが8月23日。
昨日、四十九日を済ませました。
じいちゃんも無事お墓に入り、この家から気配が消えたように思います。
認知症:じいちゃんが亡くなってから
亡くなって49日経つわけですが、今も思い出す、考えることはもちろんあります。
考えてどうするのか、と言われても、どうにもできないことはわかってはいます。
でも、考えることは止まりません。
じいちゃんの死に際して、考えることに変化は出てきました。
亡くなった直後は、こうです。
「どうしてあげたらよかったんだろう」
「あの時、亡くならずに済む方法はなかったんだろうか」
といった、
「どうしたらじいちゃんを救えたか」
を考えることが多かったように思います。
しかし今は、
「あの時こんな風なことを言っていたな」
「二人でこんなこと、話して笑ったな」
「私がこうするとこんな風に笑ったんだ」
といった「思い出を考える」ようになったことでしょうか。
認知症:じいちゃんとの思い出を考える
私が勝手にそう思っていることなのですが、「思い出」なのに「考える」ってちょっとおかしいですね。
うまく言えないのですが、
「一つ一つの場面に意味がある(あった)」
からそう感じるのかもしれません。
もちろん、じいちゃんは認知症で、それも重くなって会話もままならない毎日でしたが、手をあげたり大声を上げたり、ということはほとんどなかった。
最後まで笑顔があったのです。
それだけは介護させてもらってよかったな。と心から思います。
言葉が出なくても笑顔でコミュニケートできる。
こんなしあわせな最期はなかったし、しあわせな時間を場を共有できた。
もちろん、毎日しあわせな気持ちでいられたかというとそうではありません。
イライラすることもムッとすることももちろんお互いありました。
人間だからいつも穏やかな感情でいられることはない。
だけど、最期まで「笑顔」を交わせたこと、これだけはお互いにとってしあわせなことだった、と思います。
私は作業療法士なので、認知症の方々と接することが多い、だからそんな状態を保てたのではないか、と言われるかもしれません。
それもあると思います。
でも、作業療法士だって人間です。
魔法使いじゃない、人と人との関わりに手技や法則はありません。
認知症:じいちゃんとの別れ
なんとなく今年の夏が山かもしれない、という予感はあり、別れるべくして別れた、そんな気もしないでもない。
人はいつか死にゆくもの。
どうせ死ぬのなら家族に支えられながら旅だつことが一番しあわせ。
でも、そうでない場合もある。
人、それぞれ。
でも、じいちゃんとは良い関係のまま、お別れできたことは私たちにとってうれしく思います。
人の死をうれしいと思うだなんて、おかしいでしょうか。
じいちゃんは最期、ほぼ自分の家で自分の居場所で過ごしながら旅立ったことを喜んでくれているのではないかな、と独りよがりに感じています。
そして身軽になった今、いろんな海で大好きだった釣りを満喫しているんじゃないかな。
つらつら思うことを書き綴ってみました。
私の最期はどんな風に過ごしたいだろう。
そんなことも考える日々です。